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ナショナルギャラリー(国立絵画館)

ナショナルギャラリー(国立絵画館)

National Gallery of Art 外観
年間500万人もの美術ファンが訪れるナショナルギャラリー。入場料は無料!

ナショナルギャラリーはピッツバーグ出身の金融業者で美術品の収集家、そして3代に渡る大統領の下で財務長官を務めたアンドリュー・W・メロン氏からの寄贈を受ける形で、1937年、上下両院の合同委員会により建設が決定しました。

メロン教育慈善団からの基金を元に美術館の建設が始まり、1941年3月17日にフランクリン・D・ルーズベルト大統領が引き渡しを受け、オープン。

その後、世界中の多くの個人の美術品収集から美術品が寄贈されるようになり、13世紀から現代までの絵画や彫刻など西洋美術を中心としたコレクションの総数はおよそ12万点にものぼり、その数は個人からの寄贈などで毎年増え続けていると言います。この作品群を無料で楽しめるのだから驚きです!

自由に写真も撮影できますし、絵画のすぐ近くまで行って間近に見ることができるのは自由の国アメリカらしいと言う感じです。画家さんがたまに美術館にやって来て、自分のお気に入りの絵画の前で模写をしている姿もよく見かけます。

ルノワールの「Odalisque」を模写する画家
ルノワールの「Odalisque」を模写する画家。すごく上手です。

そんなナショナルギャラリーの魅力を伝えて行きます!

13〜16世紀イタリア美術

レオナルド・ダ・ビンチ「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」

ナショナルギャラリーのハイライトはイタリア国外では最高と言われるイタリア美術です。中でもヨーロッパ以外で見ることのできる唯一のレオナルド・ダ・ビンチの絵画「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」は必見です!愛する男性との結婚が許されず、別の男性との結婚が決まっていた女性ジネブラの切ないような悲しげな様子が絵から見て取れるように感じます。結婚後、夫はひどい財政難に陥り、ジネブラ自身も病気がちな生活を送ったとされています。
展示場「6」にあります。↓

ジネブラ・デ・ベンチの肖像の正面
「ジネブラ・デ・ベンチの肖像(Ginevra de Benci obverse)」の正面(c1474/1478)

この絵画には裏面もあるので、裏に回ってじっくり見て下さい。

ジネブラ・デ・ベンチの肖像の裏面
「ジネブラ・デ・ベンチの肖像(Ginevra de Benci reverse)」の裏面

ボッティチェリ「若者の肖像」

また、同じ展示場「6」にあるのでついでに見てほしいのが15世紀のフィレンツェの宮廷画家の代表、ボッティチェリの「若者の肖像」です。若者の優雅な手の動きがさりげなく描かれていますが、この手のしぐさは「若年層関節炎を表している」と解釈する人もいるそうです。

若者の肖像

ボッティチェリの「若者の肖像 (Portrait of Youth)」(c 1482/1485)

この他にも同じくボッティチェリの「東方三博士の礼拝(TheAdoration of the Magi)」と言う絵も必見。

ラファエロ「アルバの聖母子」

同じくイタリア美術のラファエロ作「アルバの聖母子」も必ず見てほしい作品です。典型的なイタリアの田園風景を背景に聖母マリアと幼児キリスト、幼児洗礼者聖ヨハネの3人が十字架を見ている様子が描かれています。

教会への献上用にパオロ・ジョヴィオがラファエロに依頼した作品でしたが17世紀にナポリ駐在スペイン総督によってスペインに運ばれ、18世紀中は貴族のアルバ家が所有していたことから『アルバの聖母』と呼ばれるようになりました。

その後、1836年にロシア皇帝ニコライ1世が、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館の前身である王室コレクションの目玉作品として購入し、更にその後100年程たってから当時のソビエト政府が財政難から売却し、アメリカ人実業家アンドリュー・メロン家の手に渡り、ナショナルギャラリーに落ち着くことになりました。

展示場「20」にあります。↓

ラファエロ作「アルバの聖母子」

ラファエロ作「アルバの聖母子 (The Alba Madonna)」(1510)

17世紀イタリア美術

フェッティ「ベロニカのベール」

イタリア美術の中では、フェッティの「ベロニカのベール」も必ずみてもらいたい作品の1つです。

キリストが処刑される時にベロニカと言う女性が渡した布でキリストが顔を拭いたら後になってキリストの顔が浮かび上がったと言う逸話に基づきかかれたもので、血を流し苦痛をにじませているいるキリストが写実的に描かれています。

展示場「30」にあります。↓

フェッティ「ベロニカのベール」

フェッティの「ベロニカのベール (The Veil of Veronica)」1618/1622

18世紀フランス美術

フラゴナール「本を読む少女」

18世紀のロココ美術盛期から末期を代表するフランスの画家のジャン・オノレ・フラゴナールは、1732年、南フランスのカンヌに近いグラースで、皮手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれました。

1738年には家族と共にパリに出てその後、シャルダンやフランソワ・ブーシェ、と言う巨匠に指事し、その努力が実り1752年20歳の時にフランスの王立絵画彫刻アカデミー主催のコンクールである「ローマ賞」1等賞を受賞しました。

イタリア留学などを経てパリに戻った後も貴族や財界の有力者との交流を持ち、個人の邸宅の装飾画の注文などで好評を得ていたフラゴナールが1770年に描いたのが「本を読む少女」です。

展示場「50」にあります。

フラゴナールの「本を読む少女」

フラゴナールの「本を読む少女(Young Girl Reading)」1770

この絵のモデルは不明とされていますが、一部の研究者からはフラゴナールの妻の妹で画家の弟子であり、しかも愛人でもあったマルグリット・ジェラールとする説も出ています。絵を見る限り良家の子女が読書に没頭している上品な絵に見えますが、実は愛人だったとしたらまたちょっと見方が違ってくる気がします。

旺盛を極めたフラゴナールも1789年のフランス革命による体制変革の後はロココ美術も次第に下火になり、晩年は人々からは忘れられ、不遇な生活を送りながら貧困のうちに亡くなったと言います。人の人生は最後までどうなるかわからないですね。

19世紀フランス美術

ナショナルギャラリーでは日本人にもなじみのあるモネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ドガ、ミレーなど印象派と後期印象派の作品がとても充実していて見応えたっぷりです。全ては紹介しきれませんが、その一部を紹介します。

モネ「ルーアン大聖堂」「パラソルと女性ーモネ夫人と息子」

印象派の巨匠クロード・モネの後年の作品に特徴的なのは、連作という形式です。モネは「ルーアン大聖堂」だけでも30以上の作品を残しています。これについてモネは「大聖堂に惹かれたわけではなく、時間とともに変化していくその場の雰囲気に取り付かれたのだ」と語っているそうです。ナショナルギャラリーに展示されている2つの「ルーアン大聖堂」もその連作の1つです。移り行く時間と光の変化によってできる、大聖堂の微妙に違った表情がカンバスに美しく表現されています。
展示場は「87」です。

Rousen Cathedral Rousen Cathedral Sunlight

左が「Rousen Cathedral」右が「Rousen Cathedral Sunlight」です。

また展示場「85」にもモネの作品の代表作の1つ「パラソルと女性ーモネ夫人と息子」が展示されています。風景画のモネが描く貴重な人物画で、モネが当時滞在していたパリ北西ヴァル=ドワーズ県の街アルジャントゥイユの草原に当時の妻であるカミーユ・ドンシューが日傘を持って立ち、その傍らに当時5歳だった長男ジャンが寄添う様子をモデルに制作されています。愛する妻と息子が振り向いている幸せいっぱいの様子をとらえた作品だとされています。しかし愛するカミーユはこの絵が描かれてから4年後、32歳の若さにして亡くなりました。

パラソルと女性ーモネ夫人と息子

パラソルと女性ーモネ夫人と息子 (Woman with a Parasol-Madame Monet and her Son) 1875

モネが描いた「日傘をさす女性」の絵は3枚あるとされています。残りの2枚はフランスのオルセー美術館にあります。この2枚は愛する妻カミーユが亡くなってから7年後、再婚相手の連れ子がモデルをつとめましたが、逆光と風で顔はよく見えないように描かれています。

「人物も風景の一部としてとらえていたから詳細に表情を描いていない」との説がある一方で、カミーユの面影を追っていたモネは、顔をわざと描かなかった、もしくは描けなかったとの説もあります。ナショナルギャラリーにある「日傘の女性」の顔立ちはわかるように描かれていますので、やはり、妻を失った後は顔を描けなかったのではとの解説に納得してしまいますね。

この他にも展示場「85」にはいくつもモネ作品がありますのでご紹介します。

モネの「Japanese Footbridge」

モネの「睡蓮の池と日本の橋(=The Japanese Footbridge)」1899

「光の画家」と呼ばれたモネは、上記の「ルーアン大聖堂」のように同じ題材を異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作していますが、もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが「睡蓮」の連作です。ナショナルギャラリーにある「睡蓮」はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池とその上に自らが浮世絵からヒントを得て作らせた日本風の太鼓橋を題材に描かれた「睡蓮の池と日本の橋」です。とても奇麗な色彩で見ているだけで時間が経つのを忘れてしまいそうです。

モネ「Banks of the Seine, Vetheuil」

モネの「Banks of the Seine, Vetheuil」1880

「Artists Garden at Vetheuil」

モネの「Artists Garden at Vetheuil」1880

ゴーギャン「ファタタ・ミティ」

後期印象派を代表するポール・ゴーギャンは、1888年に南仏アルルでフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活を試みましたが、2人は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」で共同生活はたった2ヶ月で破綻。その後、ゴーギャンは楽園を求めてタヒチへと旅立ちました。健康状態の悪化や経済的困窮のために一度帰国しましたが、1895年に再びタヒチに渡った後は54歳で亡くなるまでタヒチへ留まり次々と作品を生み出しました。

そうした作品のうちの1つ、タヒチを鮮やかに描いた「ファタタ・テ・ミティ」はナショナルギャラリーでは必見です。

展示場「83」にあります。

ゴーギャン「ファタタ・テ・ミティ」
ゴーギャン「ファタタ・テ・ミティ (Fatata te Miti)」1892

その他にも同じ展示場内にゴーギャンの作品がいくつかありますのでご紹介します。

ゴーギャン「Words of the Devil」 ゴーギャン「自画像 」

左が「Words of the Devil」1892、右が「自画像 (Self Portrait)」1889

ゴーギャンが絵に興味を持ち始めたのは23歳のころ、そして本格的に絵を始めたのは35歳の時です。それまでは船員や株式仲買人等で生計を立て、結婚もし子どもも生まれ、普通に人生を送っていました。仕事が失敗したこともあり、趣味として始めていた絵の世界にのめりこみ、画家として生計を立てることを決意。しかし絵は売れずに生活は困窮し、妻は子供を連れて出て行ってしまったそうです。

その後、楽園だと夢見て渡ったタヒチでも生活が困窮し、心臓病と梅毒により健康状態も悪化、妻とも不仲で自殺を試みたものの失敗しました。

生前は同世代の画家からも認められず、不遇な生活をしていたゴーギャン。そんな自らを描いた「自画像」ですが一体どんな思いで描いたのでしょうか。ゴーギャンは死後になってその作品の価値が見いだされた作家です。そんなゴーギャンに思いを馳せながら絵を楽しんでみて下さい♪

ゴーギャン「Delectable Waters」

ゴーギャンの「Delectable Waters」1898

ゴーギャン「Bathers」

ゴーギャンの「Bathers」1897

ルノワール「オデリスク」「じょうろを持つ少女」

フランス印象派を代表する巨匠ピエール・オーギュスト・ルノワールは仕立て屋の6男として労働階級に生まれ、決して裕福とは言えない家庭環境で育ちました。

小さい頃から絵の才能を見せていたルノワールは13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いになりましたが、産業革命による機械化などで職人としての職を失ってからは画家になることを決心。1862年、21歳の頃に官立美術学校に入り、絵の勉強を本格的に開始しました。

ナショナルギャラリーに納められているルノワールの作品のうちの1つ「オデリスク」は1870年のサロンに出品され入選した作品で、当時の恋人だったリーズ・トレオをモデルにオスマン帝国スルタンの後宮で仕えた女官「オダリスク」を描いたものです。当時好まれていた「オリエンタリズム(東方風)」のアプローチで制作されていて、ナショナルギャラリーでも「オリエンタリズム」のセクションの展示場「81」に展示されています。

ルノワールの「オダリスク」

ルノワールの「オダリスク (Odalisque)」1870

初期の頃はサロンに作品を出品しても当選や落選を繰り返し、生活が貧窮していたルノワールはもっと絵が売れるようにと願って「光でいっぱいのチャーミングな女性や子供の絵を描き始めた」と言うことで、この「じょうろを持つ少女」もそうした点から、当時ルノワールが交流のあったモネの庭で描かれたとされています。

展示場「85」にあります。

ルノワールの「じょうろを持つ少女」

ルノワールの「じょうろを持つ少女 (A Girl with a Watering Can)」1876

ルノワールは風景画や花の絵なども制作しましたが、女性像、少女像、裸婦像など代表作は人物像です。そんなルノワールも1880年代前半頃から、印象派の技法に疑問を持ち始め、1881年のイタリア旅行でラファエッロらの古典に触れてからはそれが顕著となって行きました。その頃に描かれたものは堅く冷たい色調のものが多いとされていますが、1885年の「Girl with a Hoop」もそんな時に描かれた作品です。「じょうろを持つ少女」と比べると少し暗くて堅いような表情が読み取れますよね。

展示場「85」にあります。

ルノワールの「Girl with a Hoop」

ルノワールの「Girl with a Hoop」1885

1888年頃からはリューマチ性関節炎や顔面神経痛に悩まされ、晩年は車椅子生活を余儀なくされたルノワールですが、痛みに耐えながらも死ぬ間際まで意欲的に制作を続けました。亡くなったのは78歳の時です。

ちなみにルノワールの作品の中でも有名な大作「舟遊びの人々の昼食」は同じくDC内にあるフリップスコレクションにありますので、そちらにも是非足を伸ばして下さいね。

ゴッホ「ラ・ムスメ」「自画像」

オランダ出身で後期印象派の代表的な画家であるゴッホの絵は1990年に「医師ガシェの肖像」が8250万ドルの高値で売れたことなどが話題になりましたが、生前、売れたのは「赤い葡萄畑」と言う作品1つだけ。しかも友人の姉がたった400フランで購入してくれただけでした。

弟テオからの毎月の仕送りで生活し、絵も売れないため生活はいつも困窮していたゴッホはゴーギャンとの共同生活の末、自らの耳を切る事件を起こすなど常軌を逸した行動でも知られ、何度も起きる持病の発作で精神病院にも入院し、結局37歳の若さで死亡しました。死亡の理由はピストル自殺。ただすぐには死に切れず、2日間苦しんだ後に絶命するなど最後まで苦しみが続く人生だったとも言えるかもしれません。(※死亡の理由については近所の子供が誤ってゴッホを銃で撃ってしまったのをゴッホがかばったとの説もあります。)

今では「狂気の天才」とも称されるゴッホですが主要作品の多くは1886年以降にフランスに住んでいた頃、特にアルル時代とサン・レミの精神病院での療養時代に、時には1日1作以上と言うハイペースで制作されました。

ゴッホは当時の画家たちと同じように日本の浮世絵などにも影響を受け、日本の歌川広重の作品を油絵でナショナルギャラリー摸写したりしています。日本に強い憧れを抱いていたゴッホはアルル時代の1888年7月に1週間かけて描いたアルルの少女のことを、日本語の「ムスメ」の名前で呼んでいました。このためこの作品は一般的にも「ラ・ムスメ」との名で知られるようになったのです。にあるのはこの「ラ・ムスメ」です。

展示場「83」にあります。

ゴッホの「ラ・ムスメ」

ゴッホの「ラ・ムスメ(La Mousme)」1888

ゴッホがこの言葉を知ったのはピエール・ロティの「お菊さん」を読んだからでした。ロティはその中で「ムスメ」の言葉について「Mousme(ムスメ)とは若い女の子、若い女性を意味する単語で日本語の中でも最も可愛らしい言葉の一つである。」などと説明しています。

また少女が持っている白いキョウチクトウの花は自然の生命の循環と再生に対するゴッホの思いと関係しているのではないかとの指摘もされています。

同じ展示場「83」には1889年に描かれたゴッホの「自画像」も展示されています。

ゴッホの「自画像」

ゴッホの「自画像」1889

モデルを雇うお金もままならなかったゴッホは、27歳で絵を始めてから自殺で死ぬ37歳までのわずか10年の創作期間の間に36にのぼる自画像を描いたことで知られています。自画像は銅像を見ながら描いたものと見られるため、実際には左右が逆転しているとされています。

ナショナルギャラリーに展示されている自画像はサン・レミの精神病院での療養時代、人生の後期に描かれたものです。

このほかにも展示場「83」にゴッホが1890年に描いた以下の作品がありますのでお見逃しなく!

ゴッホの「Girl in White」

ゴッホの「Girl in White」1890

ゴッホの「Green Wheat Field Auvers」

ゴッホの「Green Wheat Field Auvers」1890

ゴッホの「Roses」

ゴッホの「Roses」1890

19世紀〜20世紀フランス・イタリア美術

モディリアーニ

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年にイタリアのトスカーナ地方でユダヤ系イタリア人の家庭に生まれました。幼い頃から絵に興味を持っていたモディリアーニは1898年14歳のときに風景画家のグリエルモ・ミケーリのアトリエでデッサンの指導を受けるようになりました。

モディリアーニは生まれつき病弱体質で、1900年には肺結核により病気療養の為、フィレンツェ、ヴェネツィアなど気候の良い土地を巡る旅に出ています。その時の影響でしょうか、1901年からは故郷を離れてフィレンツェに移り住み、裸体美術学校で学んでいます。

その後1906年パリへ移住してアカデミー・コラロッシに入学。この頃パブロ・ピカソら数々の画家と交流を結ぶようになっています。

1917年にはアカデミー・コラロッシで画学生だったジャンヌ・エビュテルヌと知り合い同棲を始めました。当時モディリアーニは33歳でジャンヌは19歳。モディリアーニはユダヤ教、ジャンヌはカトリックで、結婚には周囲から反対されました。翌年には11月29日長女ジャンヌが誕生。1919年にはジャンヌ・エビュテルヌと結婚を約束していますが、生来から患っていた肺結核や貧困に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存など荒れた生活の末、1920年に結核性髄膜炎により、わずか35歳の若さで死亡しました。結婚を約束していたジャンヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺。この時妊娠9ヶ月だったと言います。

晩年期になってからようやく画家として評価され始めたと矢先に亡くなってしまったモディリアーニ。ナショナルギャラリーにある絵も彼の晩年期の1916~1919年に描かれたものです。

1917年に描かれた作品「青いクッションの裸婦」は展示場「81」にあります。

モディリアーニ「青いクッションの裸婦」

モディリアーニ「青いクッションの裸婦 (Nude a Blue Cushion)」1917

亡くなる前の年の1919年描かれた作品の「子供とジプシー女」は展示場「80」です。

モディリアーニ「子供とジプシー女」

モディリアーニ「子供とジプシー女 (Gypsy Woman with Baby)」1919

モディリアーニの絵は死後になって急速に値段が高騰し、20世紀を代表する画家とされたのは皮肉とも言えそうですね。このほかにもナショナルギャラリーにはいくつもモディリアーニの作品がありますので、お好きな方はじっくり鑑賞して下さい。

ちなみに「Head of a Woman」と言う1910~1911年頃に石灰岩いにより作成されたモディリアーニの彫刻もありますよ。

メインフロアからは1階下がったグラウンドフロアの展示場「41」です。

モディリアーニ「Head of a Woman」

モディリアーニ「Head of a Woman」1910/1911

16 〜17世紀スペイン美術

エル・グレコ「ラオコーン」

スペインの三大画家の1人と称されるエル・グレコは1541年に当時ヴェネツィア共和国の支配下にあった今のギリシャ・クレタ島で生まれました。

その後ヴェネツィアに渡りティツィアーノ・ヴェチェッリオに弟子入りして絵の勉強をしました。イタリア滞在時は報酬などでの金銭トラブルが絶えず、貧しい暮らししていたとされています。

1576年頃スペインに渡り宮廷画家を目指すしましたが、彼独特の奇抜な構図などが当時スペインで絶対的な権力者だったフェリペ2世には評価されませんでした。しかし知識層や宗教関係者からは大きな支持を得て数々の作品を生み出しました。

ナショナルギャラリーにあるのはエルグレコの「ラオコーン」です。1610〜1614年頃描かれたと見られています。

展示場「28」にあります。

エルグレコ「ラオコーン」

エルグレコ「ラオコーン (Laocoon)」c. 1610/1614

これはエル・グレコ唯一の神話画で、包囲するギリシア軍が残した木馬を市内に運ぶことに反対した神官ラオコーンが、木馬に向かって槍を投じたところ2匹の大蛇が現れ、ラオコーンの目をつぶした上で、彼の2人の息子を絞め殺したと言う神話を描いたものです。大蛇に襲われる神官ラオコーンとその息子たちの、鬼気迫る様子がおどろおどろしく表現されています。

絵の中には全能の神ユピテルと巨人の娘レトの子であるアポロと双子の妹ディアナが、神官ラオコーンとのその2人の息子達が絞め殺される様子を見ていますが、1950年代におこなった修復での洗浄によって、画家が塗り潰したと見られる逆の方向を向いたディアナの顔が現れました。

絵の中には、ギリシャ軍が残した木馬の絵も小さめに描かれています。

ちなみに「エル・グレコ」は本名ではなくイタリア語で「ギリシャ人」を意味する言わばあだなです。ちなみに本名は「ドメニコス・テオトコプーロス」で、グレコは晩年に至るまで自身の作品にギリシア語の本名でサインをしていたので彼のアイデンティティーは生まれ故郷のギリシャ・クレタ島にあったのではないかと推察されますね。

17世紀オランダ美術

フェルメール「はかりを持つ女」「赤い帽子の少女」「手紙を書く女」

レンブランドと並ぶ17世紀のオランダ美術を代表する画家のヨハネス・フェルメールは寡作で知られ、現存する作品はわずか30数点ほどと言われています。そのうち3点がナショナルギャラリーの所蔵となっています。

フェルメールの生涯の詳細は分かっていませんが、1632年デルフトに居酒屋と宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスの下に生まれました。

1653年にカタリーナ・ボルネスと結婚して間もなくして妻の裕福な母と暮らし始めたほか、父親が亡くなった後には1655年に実家の家業を継いで、居酒屋・宿屋の経営にも乗り出しました。このほかパトロンからの支援もあったフェルメールは当時は金よりも高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンブルーを多用することができ、彼の絵に見られる鮮やかな青は、「フェルメール・ブルー」と呼ばれています。「北のモナリザ」とも呼ばれる彼の代表作「真珠の耳飾りの少女」でも青色が使われていますよね。

また聖ルカ組合に加入したフェルメールは2回もその理事に選出されており、当時画家としての評価が高かったことが伺えます。

フェルメールの「はかりを持つ女」

フェルメールの「はかりを持つ女 (Woman Holding a Balance)」1664

「はかりを持つ女 」はフェルメールが1662年から1663年ごろに描いた絵画と見られ、空の天秤を持って立つ若い女性とその後ろの壁には両手を広げるキリストを描いた「最後の審判」の絵画がかけられています。この女性はフェルメールの妻カタリーナをモデルとしているとされています。

展示場「50」にあります。

フェルメールの「赤い帽子の少女」

フェルメールの「赤い帽子の少女」

フェルメール作品は贋作も多く、1945年には西洋美術史上、最も有名な贋作事件のひとつ、ハンス・ファン・メーヘレンによる「エマオのキリスト」贋作事件が発覚するなどしていますが、ナショナルギャラリーにある「赤い帽子の少女」は他のフェルメール作品に比べてサイズが小さく、カンヴァスでなく板に描かれているなど異色なため、フェルメールの真作であるかどうか疑問視する意見もあります。この「赤い帽子の少女」はエックス線写真により、実は男性の肖像を描いた別の絵を塗りつぶして描かれたことがわかっています。

フェルメールの「手紙を書く女」

フェルメールの「手紙を書く女」

「手紙を書く女」はフェルメールが1665年〜1666年頃に描いた絵画とされています。

その後のフェルメールですが、1670年代になると、第3次英蘭戦争が勃発しオランダ経済も低迷。作品も全く売れなくなり大打撃を受けました。

フェルメールにはなんと15人の子供が生まれるなど(うち4人は夭折)、大家族だったため、家族を養うために奔走しましたが首が回らなくなり、借金を残したまま42〜43歳でこの世を去っています。死因は不明ですがその後自己破産してしまった妻のカタリーナが裁判所に出した嘆願書の中で「夫は死ぬ数日前からほとんど口を聞かなくなり、話したかと思うと急に絶叫していました。」と綴っていて、専門家の間では極度の疲労と緊張の連続からくる心臓発作ではなかったかとの推測も出ているそうです。

ちなみにフェルメールの作品は数が少なくその希少性から盗難も多発していますが、1990年にボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館で発生した当時で被害総額2億~3億ドルともされる盗難事件で盗まれたフェルメールの代表作「合奏」は現在も未発見のままとなっています。

レンブラント「自画像」

17世紀のオランダを代表する画家、レンブラント・ハルメンス・ファン・レインはスポットライトを当てたような強い光による明瞭な明暗対比などその巧みな光の捉え方から「光の魔術師」などとも呼ばれています。

1606年、レイデンで製粉業を営む中流階級の家の8番目の子供として生まれたレンブラントは若い頃から肖像画家として成功しました。1634年には裕福な美術商の娘サスキアと結婚以後は大規模な工房を構えて多くの弟子を抱えるなど富と名声を欲しいままにしていました。

しかし4人の子供のうち3人が生後わずか1〜2ヶ月で亡くなり、最初の妻サスキアもわずか29歳の若さで亡くなってから生活は暗転しました。その後家政婦として雇った未亡人ヘールトヘと愛人関係になった挙げ句、婚約不履行で裁判に訴えられたほか、資産運用の失敗、1652年から始まった英蘭戦争による経済不況の影響、そしてそもそもの浪費癖から財政的苦難にあえぎ、結局自己破産するまでに到りました。

レンブラント「自画像」

レンブラント「自画像 (Self-Portrait)1659」

ナショナルギャラリーにある「自画像」は、無一文になった頃の1659年に描かれたものです。家なども競売にかけられ、翌年の1660年にレンブラントは邸宅去って貧民街に移り住んでいます。

展示場「48」にあります。

画家生活の中で自画像をこれほど多く描いた画家はいないと言われるレンブラントですが、この頃はどんな思いで自らの肖像を描いたのでしょうか。深い皺が刻まれ、人生の栄光と転落を味わった人間の苦悩が見て取れるようです。

裁判を起こされるきっかけにもなった、次に雇った若い家政婦ヘンドリッキエとは事実上結婚状態にあったとされ、娘ももうけていますがそのヘンドリッキエは1663年に38歳で死去。最初の妻サスキアとの間の息子ティトゥスも1668年に急死するなど家族の不幸が続いたレンブラントはその翌年の1689年には生活が好転することもないまま63歳でこの世を去りました。

波瀾万丈の人生を送ったレンブラントですが、最後の最後まで意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残しているのは皆さんご存知の通りです。歴史に「もしも」はないですが、最初の妻が早くに亡くなっていなかったらレンブラントの人生や作品に大きな違いがあっただろうことは間違いありません。でもそれが画家としてはどうだったかは誰にもわかりませんね。

イギリス美術

ターナー「月光の中の石炭運搬船の転覆」

18世紀末から19世紀のイギリスを代表する風景画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンで理髪店を営む一家に生まれました。

ターナーは学校教育もほとんど受けていなかったようですが、子供の頃から非凡な絵の才能を見せ、13歳の時、風景画家トーマス・マートンに1年程弟子入りし絵画の基礎を学んだ後、14歳でロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し、1799年には24歳の若さで英国美術界の最高権威のアカデミーの準会員、1802年に27歳の時には史上最年少で正会員になりました。

ロイヤルアカデミーの準会員になってからはパトロンにも恵まれ、順調な画家生活を送ったとされています。

ナショナルギャラリーにあるのは1835年、ターナーが60歳頃に描いた「月光の中の石炭運搬船の転覆」です。ターナーは晩年になるほど鮮やかな色彩とまばゆい光で、すべてのものが溶け込んでしまうような画風が顕著になって行きますが、この作品もそうした画風が表れていますね。

展示場「57」にあります。

ターナーの「月光の中の石炭運搬船の転覆」

ターナーの「月光の中の石炭運搬船の転覆 (Keelmen Hearing in Coals by Moonlight)」1835

まばゆいばかりの明るい光がなんとも印象的な「月光の中の石炭運搬船の転覆 」ですが、実際には夜景を描いたものです。

ターナーの作風はモネなど後のフランス印象派の画家たちにも大きな影響を与えたと考えられています。

イギリスの誇る巨匠ターナーの絵は必見ですので是非楽しんで下さいね。

ミュージアムショップ&カフェ情報

ナショナルギャラリーをたっぷり堪能した後は、是非ミュージアムショップに寄ってみて下さい!西館1階とその下のレベルのコンコースに2つあります。

西館1階にあるミュージアムショップ
西館1階にあるミュージアムショップ

お店には複製画はもちろん可愛い文房具やポストカード、ジュエリーやスカーフなど様々なお土産品が並んでいて、ミュージアムショップも時間をかけてたっぷり堪能したいところです。

複製品の数々
様々な複製品が売られています。

ミュージアムショップ
可愛いグッズなどもたくさんあります。

またカフェコーナーもいくつかあります。

1つはコンコースにあるミュージアムショップの真横にある「カスケードカフェ」。ピザやサラダバー、サンドイッチ、グリルもの、世界のお料理、シェフのお勧め、などを注文できるフードコートになっていて、セルフサービスでテーブルに座って食事をすることができます。月曜〜土曜は午前11時〜午後3時まで、日曜日は午前11時〜午後4時まで開いています。

cascade cafe
セルフサービスの「カスケードカフェ」

同じくコンコースにある「エスプレッソ&ジェラートバー」は月曜〜土曜の午前10時〜午後4時半、日曜は午前11時〜午後5時半まで営業しています。

エスプレッソ&ジェラートバー
コンコースにあるエスプレッソ&ジェラートバー

もう1つは西館1階にある「ガーデンカフェ」。月曜〜土曜までは午前11時半〜午後3時まで、日曜日は午前11時〜午後5時半まで営業しています。

garden cafe
西館1階にあるガーデンカフェ

歩いて疲れた時には立ち寄ってみて下さいね。

美術館から徒歩圏内の彫刻庭園「スカルプチャーガーデン」の中にある「彫刻の庭パビリオン・カフェ」もお勧めです。ガラス張りなので目の前にある広場の噴水などを眺めながら食事ができますよ。

ナショナルギャラリー情報

ナショナルギャラリー
住所:6th and Constitution Ave NW, Washington, DC 20565
電話:202-737-4215
HP:http://www.nga.gov/content/ngaweb.html
営業時間:月曜〜土曜が朝10時〜午後5時まで
     日曜は午前11時〜午後6時まで。
     ※クリスマスの12月25日とお正月の1月1日はお休み

紹介しきれなかった作品もたくさんあります。是非一度じっくりと時間を取って訪れてみて下さいね!

※文中に出てくる展示番号は2014年10月時点です。時として展示場所は変わりますので、訪問した際、インフォメーションデスクで確認することをお勧めします。

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