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フィリップスコレクション

フィリップスコレクション

フィリップスコレクション

Dupont Circleの駅の近くにあるフィリップスコレクション

元々個人の邸宅だった所を美術館として公開しているフィリップスコレクションは1921年にアメリカ初の近代美術館として開館しました。

創設者のダンカン・フィリップ氏はジョーンズ&ラフリン製鉄会社の創設者の孫で美術に深い関心を持っていて、兄と共に一族のコレクションを管理していました。しかし父親と兄を相次いで亡くしたことを受け、自宅にアートギャラリーを開くことを決め、1921年に自宅の一部を利用して240の作品の一般公開を開始。同じ年に画家のマージョリー・アッカーと結婚し、ともにコレクションを拡大して行くと共に家の増改築も重ね1930年には家全体を美術館として使うようになりました。

フィリップスコレクションはルノワールやゴッホ、シャガール、ドガ、セザンヌ、ボナールなど19〜20世紀のフランスやアメリカの画家らの作品を所蔵しています。

ルノワールの「舟遊びの昼食」

フィリップスコレクションのハイライトは何と言ってもピエール・オーギュスト・ルノワールの代表作の1つ「舟遊びの昼食」です。1882年の第7回印象派展に出品されたこの作品は、セーヌ河沿いラ・グルヌイエールにあるシャトゥー島でアルフォンス・フルネーズ氏が経営する「レストラン・フルネーズ」のテラスで舟遊びをする人々が昼食を楽しむ場面を描いた縦1.3m×横1.7mを超える大作です。

House Floor 2Uのギャラリーの部屋にあります。

ルノワールの「舟遊びの昼食」
ルノワールの代表作「舟遊びの昼食 (Luncheon of the Boating Party)」1880-1881

絵の左側の手前には犬を抱き上げる女性が描かれていますが、この女性は後にルノワールの妻となる当時まだ20歳だったアリーヌ・シャリゴで、その後ろにレストランの経営者アルフォンス・フルネーズの姿が描かれています。アリーヌはその後、ルノワールの作品の中でよく描かれていますが、彼女を描いたのはこの作品が初めてのことです。2人が出会ったばかりの初々しさが少し見て取れるような気がします。

更にその奥にいるバルコニーに体を傾ける帽子をかぶった女性は経営者の娘アルフォンシーヌ・フルネーズで、彼女と会話しているのがバルビエ男爵の後姿と、この絵の中にいる人々はみんなルノワールの友人です。

この作品の舞台となったパリ郊外のシャトゥー島にあるレストラン・フルネーズは、当時のパリで最新流行のスポットで、ルノアールやモネらがよく訪れて、食事や舟遊びをした場所でもあります。

この作品はルノワールにとって印象派絵画の頂点であると同時に、そこからの決別を示す集大成的な作品とされています。印象派の技法に限界を感じていたルノワールは、その後、従来の印象派からの転換を試みています。

この「舟遊びの昼食」は1932年にフィリップス夫妻が12万5000ドルで購入したものですが、その後ロンドンのナショナルギャラリーがこの絵を購入したいと金額が記入されていない小切手をフィリップ氏に手渡したところ、フィリップス氏は断固拒否したという逸話も残されています。

印象派の巨匠ルノワールの代表作を是非楽しんで鑑賞して下さい♪

ゴッホの「道路工夫」

ゴッホの「道路工夫」

ゴッホの「道路工夫 (Vincent van Gogh, The Road Menders)」1889

フィンセント・ファン・ゴッホの「道路工夫」は、ゴッホの耳切り事件の1年後、1889年に描かれたもので、彼が入院していたサンレミの精神病院の前の工事中の通りを描いています。実は同じシーンを2枚描いていてそのうちの1つがフィリップスコレクションにあります。

ダンカンフィリップス氏はこの絵は「ゴッホ作品の中でもベストなもの」と賞賛していました。House Floor1に展示されています。

ゴッホの「Entrance to the public Gardens in Arles」

ゴッホの「アルルの公共庭園への入り口(Entrance to the public Gardensin Arles)」1888

このは「アルルの公共庭園への入り口」「道路工夫」の前の年の1888年、ゴッホが集中的に絵を描いていた頃に完成させたもので、この絵について10月頃に弟テオに宛てた手紙の中で「新しいサイズ30のカンバスに庭の絵を描いたよ」と報告しています。

House Floor 2Lのギャラリーに展示されています。

セザンヌの「ザクロと洋梨のあるショウガ壷」

セザンヌ「ザクロと洋梨のあるショウガ壷」
セザンヌの「ザクロと洋梨のあるショウガ壷 (Ginger Pot with Pomegranate and Pears)」1893

「近代絵画の父」とも称される、後期印象派を代表するフランスの画家ポール・セザンヌは1839年1月19日、南仏の小さな町エクス=アン=プロヴァンス(エクス)で生まれました。父ルイ=オーギュスト・セザンヌが知人と共にセザンヌ・カバソール銀行を設立し、事業は成功したため、比較的裕福な生活を送ったとされます。

少年時代にエミール・ゾラと知り合い、意気投合し絵画の創作に熱中しながら親友として絆を深めて行きました。

1859年から父の希望で法律を学ぶためエクスの大学に入学しましたが、法律になじめず、本格的な絵画を学び始めるうちに画家への想いが強くなり、1861年、法律の勉強を放棄してパリへに向かって父との対立が本格化しました。

その後、カミーユ・ピサロやクロード・モネ、ルノワール、フレデリック・バジールら後に初期印象派を形成する主要な画家たちと交流を育くみながら、印象派展に何度も出品しましたが落選続きで作品はほとんど理解されませんでした。セザール自身は1878年頃から印象派の手法に不満を感じ始め、印象派の他のメンバーとの交流が少なくなり、1880年代以降はパリを離れてエクスに戻って制作を続けました。

1882年の時には初めて43歳にしてようやくサロン(官展)に入選しましたが、この時も友人の審査員に頼み込んでやっとのことで入選したとか。

そんなうだつのあがらないセザンヌをモデルにして、子供の頃からの親友エミール・ゾラが1886年、失敗した画家についての小説「制作」を出版したことから2人は絶交。一方で同じ年に亡くなった父の残した莫大な遺産のおかげで生涯の経済的不安から開放されました。

若い頃には彼の絵はなかなか理解されなかったセザンヌですが1890年代後半からは次第に評価を得るようになり、晩年期には彼の絵画は高額で取引されるようになりました。

「ザクロと洋梨のあるショウガ壷」は評価を得るようになってからの1893年に描かれた作品です。House Floor 1のギャラリーにあります。

1892 〜1895年頃の作品「Fields at Bellevue」や1906年の作品「The Garden at Les Lauves」も同じ展示部屋にあります。

セザンヌの「Fields at Bellevue」
セザンヌの「Fields at Bellevue」1892 and 1895

セザンヌの「The Garden at Les Lauves」
セザンヌの「The Garden at Les Lauves」1906

晩年になって名声を得ることになったセザンヌですが、糖尿病など健康状態が悪化したほか精神状態も不安定に。それでも絵画を描き続けていたセザンヌですが1906年10月に野外で制作中に大雨に打たれて肺炎になりエクスのアパートで死去しました。67歳でした。

ボナールの「棕櫚の木」「開かれた窓」

ボナールの「棕櫚の木」

ボナールの「棕櫚の木」1926

19世紀~20世紀に活躍したフランスの画家ピエール・ボナールは、ポスト印象派とモダンアートの中間点に位置する画家で、ナビ派に分類されています。ナビ派の画家の中でも特に日本趣味の影響が大きく反映されており、画家仲間からは「ナビ・ジャポナール(日本かぶれのナビ)」と呼ばれていました。

1867年、パリ郊外のフォントネー=オ=ローズで陸軍省の役人一家の次男として生まれたボナールは、1886年大学入学資格試験に合格しパリで法律を学び始め弁護士資格を得ますが、同時に美術学校で絵画を学び始めると、芸術の世界に情熱を注ぐようになり若い画家たちのグループ「ナビ派」に参加。1889年に商用ポスターのための図案が採用されたのをきっかけに画家として生きて行くことを決心します。

1893年には後に妻となるマリア・ブールサン(通称マルト)と出会い、以後はボナールが描く女性はほとんどがマルトをモデルとして登場するようになりました。このマルトは異常なほど入浴が大好きで一日の相当の時間を浴室で過ごしていたと言われていますが、そのためかボナールの作品も浴室での様子を描いたものが多くなっています。

1926年に描かれた「棕櫚の木(ヤシの木)」はボナールの20年代の代表作の1つで、前年の1925年に購入した別荘のある南仏ル・カネ近郊の風景を基に制作されたものです。ちなみにこの別荘に引っ越して来る際も、妻マルトの強い要望により、バスタブ付きの浴室が用意されたと言うことです。

ボナールの「開かれた窓」

ボナールの「開かれた窓」1921

ボナール作品の所有数ではアメリカでもフィリップスコレクションが一番とのことで、様々な作品を楽しむことができます。

ボナールの「The Terrace」

ボナールの「The Terrace」1918

ボナールの「Woman with Dog」

ボナールの「Woman with Dog」1922

ボナールは、南仏を拠点としつつこうした土地で庭の風景、室内情景、静物などを描き続け国内外で好評を得ました。

1942年には妻マルトが死去し、その5年後の1947年、ボナールは21年間暮らしたル・カネで死去。最後まで意欲的に絵画の制作を行っていたと言うことです。

エルグレコとフランシスゴヤの「悔悛のペトロ」

スペインを代表する画家、エル・グレコとフランシス・ゴヤによって描かれたこの2の作品には、ともに天を見上げて悲しむ老人が描かれています。

エルグレコの「悔悛のペトロ」
エル・グレコの「悔悛のペトロ」1600 - 1605

フランシス・ゴヤの「悔悛のペトロ」
フランシス・ゴヤの「悔悛のペトロ」1820-1824

エル・グレコが描いた老人は白髪の痩せ気味でちょっと見はロマンスグレーのおじいさん、フランシス・ゴヤの描いた老人はハゲで太り気味で脂ぎった感じに見えなくもないおじさん、と全く違った外見ですが、実は同一人物で、共にキリストの十二使徒の一人、ペテロを描いた作品です。

キリストのためなら命を捨てると言ったペテロに対し、キリストは「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしのことを知らないと言うだろう。」と予言。その後、キリストは逮捕されました。

キリストの逮捕後、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と問われるとペトロは「違う」と打ち消し、3度目にまた否定するとすぐに鶏が鳴き、ペテロはキリストの予言を思い出して後悔して泣き崩れた、と言う話です。

この2つの絵はそうしたペテロの姿を描いたものですが、同じ人物でも、2人の画家にかかるとそれぞれとても印象が違って描かれているのが面白いところです。

ドガの「ダンスリハーサル」

ドガの「ダンスリハーサル」

ドガの「ダンスリハーサル (Dance Rehearsal)」1875-1876

フランスの印象派の画家で彫刻家のエドガー・ドガは1834年、パリで銀行家の一家に生まれました。1855年に名門エコール・デ・ボサールに入学し、アングル派の画家ルイ・ラモートに師事し絵を学びました。

ドガの作品には室内風景を描いたものが多いですが、これはドガが網膜の病気を患っていて外に出ることがままならなかったことも関係しているとされています。

またドガは特にバレエの「踊り子」や「浴女」を題材にした作品が多いことでも知られています。銀行家の息子で、経済的にも比較的余裕があったドガは、バレエが好きで、オペラ座の定期会員になっていましたが、当時の定期会員は特権的にオペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許されていたそうで、ドガはそうした際に見た稽古風景などを多く作品として残しています。

フィリップスコレクションにあるドガの作品「ダンスリハーサル」「バレエの踊り子」もそうした踊り子の作品の1つです。

ドガの「Dancers at the Barre」

ドガの「バレエの踊り子(Dancers at the Barre)1890」

1874年、銀行家の父が借金を残したまま死去したため、ドガは借金返済のために家や財産などを売却を余儀なくされています。ドガは多くのパステル画も残していますが、これは借金返済のために多くの絵を描く必要があったと言う理由もあると言われています。

ドガの「After the Bath」
ドガの「After the Bath」1895

晩年は視力の衰えから彫刻を制作し、踊り子などを題材とした彫刻作品も残しています。

ロスコの4つの作品「ロスコルーム」

ロスコの部屋
壁一面にロスコの作品4つが掲げられた「ロスコの部屋」

1903年、当時ロシア帝国領だったラトビアのドヴィンスクにユダヤ系の両親のもとに生まれたマーク・ロスコは、反ユダヤの動きが活発になって来たことを受け、1913年に一家でアメリカのオレゴン州ポートランドに移住しました。

ロスコは1923年にニューヨークに移住し、アート・スチューデンツ・リーグを訪れ、美術の世界に入ることを決心。1925年にニュー・スクール・オブ・デザインに入学してグラフィック・デザインを学んだ後、1933年、ポートランド美術館で初の個展を開催しました。

1940年代の末ごろに独自のスタイルを確立し、次第に大家と認められるようになったロスコは1958年にニューヨークのシーグラムビルにできるレストラン「フォーシーズンズ」の壁画を依頼され、約1年半を費やし、30点の絵画「シーグラム壁画」を完成させました。しかし、一足早くオープンした店を訪れたロスコがレストランの雰囲気に幻滅し、前払金を払い戻して契約を破棄。

その後もロスコが同じ部屋に他の画家の作品と一緒に展示されることを嫌い、一つの空間で自らの作品だけを展示することにこだわったため「シーグラム壁画」はなかなか美術館に展示されないままでした。

そんな中、ダンカン・フィリップス氏は1960年に画家の意思を尊重しロスコの作品だけを1つの部屋に飾ることを決め、次々と作品を購入しました。ロスコ自身も展示部屋を訪れ、その雰囲気に満足したと言います。1961年にフィリップス氏が出張中にまた展示部屋を訪れたロスコは、スタッフらに展示の仕方を少し変えるように指示して帰って行きました。しかしフィリップス氏が戻って来て変化に気付き、元の展示通りに戻させたと言います(笑)。ただ画家の意思に沿って、部屋の中には1つの椅子だけを置くようにし、今でもそれが守られています。

その後、ロスコ自身は1970年に大動脈瘤や私生活上のトラブルなどから66歳の時に自殺。ロスコの作品は世界の4つの美術館に納められ、「ロスコルーム」がそれぞれで作られることになりました。フィリップスコレクションはアメリカで初めて「ロスコルーム」を作った美術館であり、ロスコ本人と協力し合って作られた世界で唯一の美術館です。

ロスコの作品
ロスコの作品  1968

ロスコが1つの部屋に展示することをこだわった「シーグラム壁画」を時間を取って楽しんでみて下さい♪

フィリップスコレクション情報

ミュージアムショップ
1階にあるミュージアムショップ

店内の様子
店内の様子

フィリップスコレクションの1階にはミュージアムショップとカフェテリアがあります。カフェテリアにはアウトドアの席もあるので天気のいい日には気持がいい空間です。

絵画を見終わった後には是非立ち寄ってみて下さい♪

軽食が食べられるカフェ
軽食が食べられるカフェ。一階にあります。

また、フィリップスコレクションでは毎月最初の木曜日の午後5時から「Phillips after 5」と銘打って、無料で食べられる軽食やライブミュージックのほかワインバーなどを楽しめるイベントも開催してとっても楽しいです♪更に美術館内でのコンサートもたびたび開催されていますので、HPでイベント情報をチェックしてみて下さいね。

フィリップスコレクション
住所:1600 21st St NW, Washington, DC 20009
電話:202-387-2151
HP:http://www.phillipscollection.org
営業時間:火曜〜土曜は午前10時〜午後5時まで。
     日曜は午前11時〜午後6時まで。
     (※毎月第一週目の木曜日は午後8時半までオープン。)
     月曜はお休み。お正月の1月1日、独立記念日の7月4日、
     サンクスギビングとクリスマス(12月24日〜25日)は休み。   
     入場料は10〜12ドル程。常設展示物だけでいいなら無料の日も。

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