インタビュー第3弾!<前半> 創薬の分野で起業家として成功したS & R財団の理事長、久能祐子さん
インタビュー第3弾!<前半> 創薬の分野で起業家として成功したS & R財団の理事長、久能祐子さん
ワシントンで「この人に聞きたい!」インタビュー第3回目は成功率が100万分の1で、1回につき15年、しかも費用は800億円から1000億円はかかると言う新薬の開発にこれまでに2回も成功し、日本とアメリカの両方の国で製薬会社を立ち上げて創薬ベンチャーのCEO(最高経営責任者)として財を成した起業家で、科学者や芸術家らを支援するS&R財団の理事長でもある久能祐子さんにお話を伺いました。まずは前半部分をお届けします。
財団の本拠地のEvermayにて。久能祐子さん
久能祐子さん略歴
1954年、山口県下松市生まれ。京都大学大学院工学研究科博士課程修了。工学博士。ドイツ留学後、新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)で生命科学分野の研究に携わる。1989年には株式会社アールテック・ウエノを医薬品の研究開発、製造販売を目的に設立し、パートナーの上野隆司博士が1980年代に発見した「プロストン」に基づく医薬品の第1号、緑内障及び高眼圧症治療薬であるレスキュラ®点眼液を開発、1994年世界に先駆けて日本で発売。1996年には上野氏と共にアメリカでスキャンポ・ファーマシューティカルズ社を起業し、CEO(最高経営責任者)として新しい医薬品の開発、商品化に取り組む。2006年には第2の「プロストン」医薬品となる「アミティーザ」が、FDA=米国食品医薬品局から特発性慢性便秘治療薬として販売許可承認を得るのに成功した。2007年には、スキャンポ社をナスダック市場に上場、翌2008年には大阪証券取引所ヘラクレス(現ジャスダック)にアールテックウエノ社を上場。一方で2000年には若い芸術家、科学者への支援を行うS&R財団を設立し、現在は理事長として様々な社会貢献を行っている。
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Qこれまで新薬の開発に2回も成功し、創薬ベンチャーのCEOとして成功されましたが、そもそも小さい頃はどんな子供で何になりたかったのですか?
A私は山口の下松市で3人兄弟の真ん中の子供として生まれました。2つ上の姉は非常に活発で、とても目立つ魅力的な人だったので、その後ろをいつも付いて行く感じでした。私自身は大人しい、かなりシャイな子供でした。当時から空想が大好きでいつも何かを想像して考えていましたね。また好きな事を始めると忍耐強く続けて行く性格ではありました。小学生の頃から家の設計などに興味があったので将来は建築家か外交官になりたいと思っていました。
Qいつ頃から科学者を志すようになった?何故?
A中学、高校時代は実は人に会うのは苦手だったので、感情が入らず、事実だけで答えが出るような学問が向いているなと思い始め、高校の頃には理科系に進学しようと決心しました。当時、理科系のクラスは男子生徒ばかりで、5クラスあるうち1クラスだけ女子生徒がいたのですが、その1クラスにも40人中女の子は8人しかおらず、当時からかなりの男性社会の中で生きて来ました(笑)。人が苦手で相手にできるのはせいぜい「微生物」位が丁度良かったので(笑)、大学でも工学部に進み、工学博士を目指すようになりました。
Qその後ドイツに留学されていますがきっかけは?ドイツで何を学びましたか?
A博士課程に入った時の工学部の担当の教授がそれまで女性の科学者を育てた事がなく、私の指導をどうやってすればいいかと悩んでいたらしいのですが(笑)、ある日その教授から「ミュンヘン工科大学で良く知っている先生がリサーチャーを探しているのだけど行ってみませんか?」と言ってくれたのがきっかけです。ドイツには女性の科学者も大勢いるので私にはいい環境だと考えてくれたようで、私も迷わず「行きます!」と即決しました。
ドイツの研究室では英語が第一言語で、最初は英語が全然通じず苦労しましたが、必要に迫られて話しているうちにだんだん英語もできるようになりました。ドイツではやはり女性の大学院生は多かったのが印象的でしたね。それから「自分がやりたいことをやる」「それが出来る場所に移動する」「自分で考えて、人がやっていないことをやって行く」と言う感覚の人が多かったのでそう言うことを直に学びました。当時の日本ではまだそういう感覚の人があまりいなかったので、ミュンヘンに行った事は人生の中でもかなり大きなターニングポイントとなりました。
Qドイツから帰国後、新技術開発事業団のプロジェクトに参加し、後にパートナーとなる上野隆司氏と出会われていますが?
Aドイツにそのまま残らないかと言う話もあったので日本にいったん戻ってPHDを取ったらまたドイツに戻ろうと思っていたのですが、博士課程終了後に日本でもいったんは就職活動をしてみようかと考えて、まず1年だけ三菱化成生命科学研究所と言うところで働いてから、新技術事業団に移りました。その頃までには人間が苦手だと言う意識も和らいでいたので(笑)、そろそろ人間を扱ってもいいかなと思って研究テーマを変える事にしたのです。
パートナーの上野隆司氏と
上野は新技術事業団で3つグループがあるうちの1つのグループリーダーで、まだ30歳になったばかりでした。慶応の医学部を卒業し、コロンビア大学やコールドスプリングハーバー研究所に留学した後、日本に戻って来たところで出会いました。研究者はカリカリした人が多いのですが、上野は非常に穏やかで、アイデアの出し方が天才的、今まで会った事がないタイプの人でした。
上野は当時、既にプロストン仮説を構想していたのですが、「自分の仮説が当たったらすごく大きなものが背景に隠れているかもしれない。中枢神経や細胞修復過程で何か特殊な役割を持っているものではないかと思う。」とこっそり私に打ち明けてくれました。それを聞いて「すごく面白い着眼点。もし本当に薬になるとしたら安全性の高い薬になるだろう。」と感じました。それから私も仮説が正しいかどうか一緒に実験を行うようになったのですが、実験結果が全て「仮説が正しい」事を示唆していたので、多分、上野の仮説は正しいのだろうと確信するようになりました。
Q科学者の道から創薬ビジネスに入ろうと思ったきっかけは?
A上野と一緒にスポンサーを探していたところ、上野製薬の社長だった上野の父が「うちの工場のスミで良かったら提供するよ」と言ってくれたので、新技術事業団を辞めて移る事にしました。でもまだ当時の私は研究に対する関心の方が強くて、この発見が薬になるとまでの確信はありませんでした。上野の父が年間5000万程を資金援助してくれ、1年程研究を続けた頃には「多分これは薬になるだろう」と言う段階まで進みました。
そこで上野製薬の中に「医薬品事業部」を作ってもらったのですが、あまりに薬の開発にお金がかかると言う事がわかり、そのうち上野の父は「こんな危ないことから手を引きたい」と言い始めました。妥協策として開発銀行から20億円程お金を借りる事にし、その際上野の父が土地等を担保にしてお金の工面をしてくれました。その後、上野製薬からは50億借り、その他から10億程借りたので当時合わせて80億もの借金を作ってしまいました。ある日上野の父から社長室に呼び出され「久能君、ワシが貸した金は返してくれよな」と迫られ、上野は「川に飛び込むしかない」と思い詰めたようですが、私は「ここでやめれば全額が損金となります。」と訴え諦めませんでした。
上野の父の言葉を受け「借りたお金は返さなければいけない。そのためにはビジネスで成功するしかない」と覚悟を決め、私は研究者ではなく今後は創薬ビジネスの世界に入ろうと決意しました。私は「絶対に80億円返せる」と考え、エクセル表で「1992年に厚生労働省に申請して、94年には新薬の販売を開始し、2002年には全額返済出来る」との試算を作りました。
Evermayにて
その計画を進めるために当時、まだ許可も出ていない段階で薬の販売権を売ることに決め、広告を出し、その中で一番いい条件だった藤沢薬品との提携に踏み切りました。藤沢薬品は10億円の資金や人材を提供してくれたのですが、その後私がエクセルで作った計画通りに、1994年に緑内障を治療する「レスキュラ点眼液」を世に送り出すことが出来ました。かかった費用は計80億円なので新薬製造にかかる平均的な資金の10分の1の予算でたどり着けたのです!
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後半では、最初の新薬の開発に成功した後のお話や自らの名前を冠した会社を立ち上げたお話のほか、アメリカに渡り製薬会社を立ち上げ、更なる新薬の開発に成功して上場にまでこぎ着けたお話をじっくり伺いました。後半もお見逃しなく!(右下の「次の記事」をクリックして読んで下さい。)
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コメント
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どこで博士号をもらったの?
京都大学の博士号検索サイト(kurenai)、国立国会図書館ほか検索したが、久野祐子さんが博士号をもらった形跡がないのですが・・。
経歴詐称はいけません! あなたの旦那の特許件数水増しと同じ。夫婦そろって出鱈目言ってはいけません。